おとめ山公園で思ったこと2016年09月02日 15時15分53秒

先日、おとめ山公園に久しぶりに行った。
元々は狩場、その後相馬家の屋敷であった斜面林で湧水池だとの説明が書いてあった。
植物や野鳥の説明「最近は少なくなりましたが」いろいろな昆虫も見られますとあった。
ヘイケボタルも保護(養殖?)しているという。
都会にこういう場所があることはありがたい。ないよりずっといい。100倍もいい。
でも、これじゃだめなんだ、と思った。

綺麗に清掃され、石が敷き詰められた水路は、一見、気持ちよく見える。
ちやんと広場になった草地も、いろんな種類が植えられた植物も、もとから残された斜面林の名残も。

でも、ここはあまりにも山から遠すぎるみたいだ。
斜面林というにはあまりにもピンポイントすぎるみたいだ。
すでに回廊は失われ、飛翔力のある鳥は訪れるものの、昆虫たちは確かに影が薄い。
この日はミンミンゼミとアブラゼミの大合唱だったが、あまり心が晴れなかった。

先日、ちょっぴり高台になっている場所から、台風の影響で複雑になっている雲の動きと夕暮れを眺めていた。
至福の時間だった。
確かにそこには大気が存在し、太陽のエネルギーで対流している。圧力の差により雲を生じ、地球の自転の影響を受け、ダイナミックに動いている。
このコンクリートとアスファルトだらけの自分のいる頭上にも、巨大な空気の層が存在する。自分はその中にいる。
そのことがとても嬉しかった。

いつもいつも「つながりなおし」の事を考える。
これらの事を知らない人は、感性がないのでも感覚がにぶいのでもない。
知らないのだ。

自分がやりたいことは、こういった事を、多くの人たちと共有したいということなのかもしれない。
だから「わからない」「余裕があっていいね」などと言われると傷つくのかもしれない。
怒ってはいけない。知ってても偉いわけじゃない。ただただ淡々と、そこにある事実を感じ続ければ、それだけで良いのだろうか。
それでストレス解消になって、病気も治って、経済的に恵まれた暮らしを営んでいれば、それでよいのだろうか。
よくわからない。
でも、机に向かって仕事をしているより、雲を眺めている方が絶対気持ち良い。
人工的な流れを眺めているより、藪漕ぎをしてでも土や斜面を歩き、たくさんの生きものにかこまれている方が気持ち良い。
それが自分の帰属意識なのだろう。
他の人たちはいったいどこに自分の根を、帰属する場所を求めるのだろうか。
そのことを自分には未だ理解できないでいる。
または理解することを拒んでいるのかもしれない。いい歳して困ったものだ。

まだ、こんなところにいる。2016年09月07日 15時10分52秒

昨日、久しぶりに体が動かなくなった。 運悪く夕食の席についた直後で、結局何も食べなかった。 こういう「落ち込む」症状はそろそろ卒業する頃だと思っていたので軽いショックを受けた。 今日のリワークでまさに「なぜ病気になったか、自分の側の原因」みたいなのがあった。 久しぶりに振り返って、少しずつ考え方が変わってきたのがわかる。

結局は「なんでも一人で引き受けすぎた」の一言に尽きる。 「自分がやらなくては」「他にやる人がいない」、というのも事実だが、自分が抜けた事で仕事が止まっているかというと、表面上は少なくともそんなことはない。 現場職員に聞いたところでは、「状況は悪くなっている」そうだが、外から見る限りは、むしろうまく行っているようにさえ見える。

ついつい自分が被ってしまう性格と、面白そうな事に飛びついてしまう性格。 組織に余裕が有るときはそれでも良いが、度重なるトップダウン(直属の上司からのものも含め)、仕事を振り分ける先がない組織体制、人材不足。 結局自分で増やした以上に仕事が膨らみ、コントロールを失った末発病、さらに冷静に仕切りなおす余裕を持てないまま、根拠のない責任意識にしがみついて病状悪化。 どうもそんな筋書きにいまは思える。

冷静になって考えれば、自分は決定権者ではない。 わがままを許してくれるかどうかは上司次第。 正論で考えれば、勝手に理想を目指して動き回っていたとも言える。

もちろん、そう割り切れればよいのだが…

専門職と上司の橋渡しは誰がやれば良いのだ。 理想像は明文化されている。 具体策は事業だ。事業のアイデアは、手続きではない。 それを、誰が、どうやって上層部にまで届けるのだろう。 今まで、それを考えるのを避けていた。いや、実績の積み重ねで見せるつもりだった。 専決規定では事業実施や計画に関することは部長、簡易・定例的なものについては課長となっているが。

そして当面の問題は自分の健康。 いつ治るのだ。 今になって症状がぶり返すとはどういう事だ。

誰が自分を病気にしたのだ。 決して自分ではない。 まだ、そんなところにいる。歯がゆい。 くやしいが、まだ、だ。

リワークで学ぶ意味2016年09月21日 15時39分09秒

うつ病の対処法(リワークで学ぶ意味)

「他人を変えることができないから自分を変えるのだ」とよく言われる。 確かにそうなのだが、◯◯法とか××理論という、様々な考え方を学んだり、ワークショップをやっていると、時々錯覚に陥りそうになる「自分の悪いところを是正しなくちゃ」と。

本当は、他人のことなんかろくに考えない、ろくでもない連中のおかげでこんな目に(病気)になったのは自分であり、自分は被害者だという事を忘れそうになることがある。 得体の知れない心の病気だからこれで済むが、脳の機能的な障害が起きているとしたら、暴力以外の何物でもない。 もしかしたら、時分も加害者になっているかもしれない(いや、図らずもなってしまった事を自覚している)。 善良な人々の、悪意などないほんのちょっとの無責任の重なりだって、十分に他人を傷つける事ができるのだ。 それを問題にするのは過酷だろうか。社会人として未熟だろうか。

僕が今学んでいるのはそれらの悪意や無責任をやり過ごす方法だ。 世の中をよくすることでもなければ、相手を倒すことでもない。 でもたぶん、圧力に耐えられるようになった自分は、前よりちょっと冷たい人になっているだろう。その埋め合わせは、どこかでできるのだろうか。 それとも阿呆な連中の首を閉めてやる方法をいつかみつけているのだろうか。 わからない。 でも、この怒りはおさまらないだろう。このまま抱えて生きてやる。絶対に。

死ぬときに後悔しないように?2016年09月23日 15時21分35秒

今日のリワークでスティーブ・ジョブズのスピーチが出てきたが、「死んでも悔いを残さないように、やりたいことをやれ」という話が出てきた。 ふと思うのだが、やりたい事をやろうとしてる途中に死んじゃったらどうするんだろう。

リワークの目的は「幸福は気づけば身近なところにあるんじゃない?」という気付きだったみたいだけど、むしろ僕は「にもかかわらず生きている」の方が好きだ。

生きているというのは結果だ。そして多くの事によって、結果的に「生かしてもらっている」という気持ちが、僕にはある。 それは現世のさまざまな生命を維持するためのインフラや、家族の愛情や、友人、食べ物を作っている人たち、そして既に亡くなってしまった人との会話…そんなふうにいろいろなものが今の僕を形作っている。(あ、産んで育ててくれた親を忘れてた) よく「後悔をしないように」っていうけれど、そんなに後悔することなんてあるのだろうか。 だって、死はいつやって来るかわからないし、僕は僕なりに自分の生というものをすでに形作っているのだから。 強いて言えば苦しみながら死ぬのはいやだけれど。

呪いについて2016年09月27日 14時15分55秒

この頃病気の様子がはっきりしない。落ち込む症状はもう終わったと思っていたらぶり返したり、朝起きられない、足がもつれる、やる気が出ない… リワークに通い始めたら、少しは人間らしい手応えが出てくると思ったが、なかなか思うようにいかない。結局エネルギー切れを起こしてしまう。 正直言って焦り始めたし、こんなところで学んでいることだって「俺は被害者だ!お前ら学べよ!」と叫びたくなったりもする。 そんなわけでFBに「呪いの振りまき方を教えて下さい」と軽く書いてみたら、結構反響があった。みなさん、心配してくれてありがとうございます。 「それはどういう呪いですか」「誰に対する呪いですか」と真剣に考えてみたら、対象者に自分自身が入ってしまうのは自明のことです。 ちょっとした横着。誰も悪意を持っていない。いや、中には悪意を持っているやつもいるだろうが… でも個人個人の「ちょっとしたこと」が、人を傷つけ、時に病へと押しやっていく。 体調が悪いのは、脳が壊れているのか、ホルモンバランスなのか、薬のせいなのか、お天気が悪いのか、たまたま風邪でもひいているのか。そんなことすらわからない状態に今いるもどかしさ。そんなイライラから「呪い」という言葉を発してしまいました。 ある人は「呪いは必ず時分に跳ね返ってきますよ」と、こともなげに言ってました。 まさにそのとおりだと思います。 意外にみんな呪いにはくわしいのですね。勉強になりました。